Column

二十四節気と七十二候

大雪 –五感で冬の訪れを知る–

二十四節気

大雪たいせつ:新暦12月7日頃

雪いよいよ降り重ねる折からなれば也(暦便覧)

12月初頭となると雪国の山々はほぼ冬化粧を終え、平地でも雪の備えが必須になります。ジャリジャリと騒がしい音を立てるチェーンタイヤも、冬を告げる音の便りと思えば風流に聴こえてくるかもしれません。

雪の結晶「雪」という漢字は、空からひらひらと羽のような雪片が舞い落ちる様子を表しているといわれます。積もれば憎い大雪も、ひとひらずつをよく眺めれば美しい結晶を見てとることができます。

雪の結晶を意匠化した「雪華模様」は着物や手ぬぐいの柄などに好まれますが、この雪華模様を日本で最初に研究したのは江戸晩期の大名、下総古河藩主となった土井利位でした。

オランダから輸入された顕微鏡を用いて雪の結晶を観察した利位は「雪華図説」という図集をまとめ、これが評判となり雪華模様が大流行したのです。「雪華図説」は現在でも学術的価値を高く評価され、ご当地茨城の古河博物館には利位と雪華模様についての展示ブースが設けられ、その功績を知ることができます。

七十二候

閉塞成冬そらさむくふゆとなる:12月7日頃

天地の「陽の気」が塞がって冬が訪れることをいうのだとも、重苦しい雪雲が空を覆う様子を表すのだとも。全天をどんよりと覆い尽して雪を降らせる暗い雲を「雪雲」といいますが、現在気象学的には雪雲と雨雲に区別はありません。雲の分類である雲級では「乱層雲」と呼ばれます。

熊蟄穴くまあなにこもる:12月12日頃

ヒグマ川熊が冬眠を始める季節。熊は秋になると冬眠の準備のために旺盛な食欲を発揮し、近年はエサを求めて人里に降りてしまう事象も後を絶ちません。冬眠直前の熊は松の木の皮も食べるのですが、これは空腹のためではありません。松の木に含まれる松脂で腸内の糞を固め、いわば無理やり便秘状態になって排泄のできない長い冬眠を乗り切るのです。

鱖魚群さけのうおむらがる:12月16日頃

サケ遡上鮭が生まれ故郷を目指し、河を群がり泳ぐ季節。場所によっても差があるようですが、現在は暦より早い10月から11月が主な遡上期にあたります。鮭は産卵で一生を終えるため、文字通り命を懸けたその姿は圧巻。この時期にあわせ北海道や東北では遡上鮭の見学ツアーも催され、貴重な観光資源ともなっています。日本でみられるのはシロザケですが、アラスカやロシアに生息するベニザケは産卵期にだけ体色を真紅に変え、遡上する一群は河全体を赤く染め上げます。

季節のことば

歳暮せいぼ

百貨店や食品メーカーがしのぎを削るお歳暮商戦もすっかり歳末の風物詩となりました。「歳暮」は、もともとは文字通り「歳の暮れ」をあらわす季節の言葉。年末年始、亡くなったご先祖様の魂を慰めるために子孫が供物を捧げる「歳暮の礼」という行事があり、いつしかこのときやりとりされる品物自体が「お歳暮」と呼ばれるようになっていきました。お歳暮の品として根強い人気を誇るのがビールセットです。ビールといえば夏のイメージですが、お歳暮にくわえ酒席の機会も多い年末年始はビール消費量の第二のピークとなっています。

オリオン座

日本では古くはその形から鼓星とも呼ばれた、冬の星座の代表格オリオン座。南の空にほぼ一直線にならぶ三ツ星と、リゲル、ベテルギウスという2個の一等星を持つ贅沢な星座は、天文に明るくない人でも一目でそれと見つけることができるでしょう。

オリオンはギリシャ神話に登場する美貌の青年。海の神ポセイドンを父に持ち、狩りの天才でもありましたが、彼をよく思わない神の計略によって恋人に射殺されるという悲劇の最後を迎えます。オリオン座が輝く季節は、日本では偶然にも狩猟の解禁期。どこか珍味扱いだった鹿肉や猪肉も、ジビエとして再評価の声が高まっています。
オリオン座富士山

煤払いすすはらい

現在は暮れも押し迫った大晦日直前に行うことが多い大掃除ですが、煤払いは本来12月13日に行うものとされていました。この日が正月事始めといわれ、翌年のお正月の準備を始める好日とされていたためです。煤払いは来る年の年神さまをお迎えするための、新年の準備の第一歩だったわけです。

京都の名刹、東西の両本願寺では例年12月20日にお煤払いが行われます。お坊さんや門徒さんが一斉に畳を叩きハタキをかけ、仏様の一年分のホコリをお払いする様子は京の一年の締めくくりとしてニュースでも取り上げられます。

また江戸時代、煤払いの締めくくりにはしばしば胴上げが行われていました。現在は祝い事の際に行う胴上げですが、この頃は厄落としの行為とされ、煤とともに胴上げで厄を落として新年を迎えたのです。

この時期の風習や催し

雪吊り

幹上の一点から裳を広げたように荒縄を張り巡らせる雪吊りは、実用と美観を兼ね備えた日本庭園技術の傑作。りんごの枝が雪の重さで折れないよう工夫されたのがはじまりというから、その歴史はりんご栽培がはじまった明治以降なのだとか。意外と新しい技術のようです。本格的な雪吊りは職人技ですが、庭木程度の低木ならば芯柱と荒縄を使って家庭で作ることも可能です。

雪吊りの代名詞ともいえるのが金沢兼六園。日本海の水分を多く含んだ重い雪の降る北陸には雪吊りが欠かせません。兼六園内で随一の大きさを誇る唐崎松の雪吊りは、5本の支柱に800本もの縄が吊るされ、枝振りを護っています。例年期間限定のライトアップも行われ、夜闇に照らされた雪吊りが幻想的な情景をつくります。
兼六園雪吊り

針供養

折れてしまった針、充分に使い古した針を豆腐やこんにゃくに刺して神社に奉納します。ずっと硬い布相手に働いてくれていたから、最後はやわらかいものに刺して、という心優しい伝統です。

和歌山県加太の淡島神社が発祥といわれ、江戸の後期に裁縫塾を中心に定着していきました。現在では裁縫針だけでなく、病院関係者が新品の注射針を納め針に日頃の感謝を捧げることもあるそう。関西では12月8日、関東では2月8日に行われることが多く、和歌山の淡島神社、東京浅草寺の淡島堂が特に有名で、これは淡島神社に祀られる少彦名命が日本に裁縫を広めた神様だからとも伝えられています。

羽子板市

毎月18日を観音様のご縁日とする浅草寺。一年で最後の縁日となる12月の18日は「納めの縁日」として特に重んじられ、12月17~19日に立つ羽子板市ともあわせていちだんの賑わいをみせます。その年の話題を羽子板に仕立てた「変わり羽子板」も登場し耳目を集める羽子板市は、ルーツを江戸時代に行われた歳の市までさかのぼることができます。年末、羽子板や破魔弓を観音様ゆかりの縁起物として境内で買い求めたのが歳の市のはじまりで、現在の羽子板市でも恵比須大黒のお姿絵や小判といった縁起物が売られています。

もともと単なる遊具だった羽子板が祝いの品になったのは、羽根の玉に使われる無患子(むくろじ)の実が「子に患い無し」と読めて縁起がよかったから、行き来する羽根が悪い虫を食べるトンボにみたてられたからなどの説が唱えられています。
羽子板市

神楽かぐら

「神楽」とは神霊の宿る神座(かみくら)を中心に舞いや踊りをし、神々の霊威を身に付け、あるいは周囲に分け与えるための行いをいい、神を招き饗応して送り出す一連の神事を指します。宮中では現在も12月、天照大神を祀る賢所に御神楽が奉納されます。

皇室以外で行われる民間の神楽を里神楽といい、なかでも宮崎県高千穂町に伝わる夜神楽(よかぐら)は、日没から翌朝まで夜を徹して神事を繰り広げる特殊なお祭りです。一夜で三十三番も奉納される神楽には古い儀式舞が多く残されており、国の重要無形民俗文化財に指定されました。

11月を皮切りに各集落の神社で執り行われる夜神楽ですが、現在は観光用に毎晩一時間ほど神楽が舞われ、一年を通して古の伝統にふれることができます。
高千穂神楽

大神宮札配だいじんぐうふだくばり

年末に、神宮大麻(じんぐうたいま)とよばれる伊勢神宮のお札を各家庭に配って回ること。江戸時代までは御師とよばれる神宮の神職たちが地方を行脚し、札配りやお伊勢参りのコーディネートなどを行っていました。今は各地域の神社が仲介となってお札を配布することが多くなっています。

天照大神を祀る神宮は本来、天皇以外はたとえ皇太子であっても個人的に参拝してはいけないという「天皇専用」の神社でしたが、時代が下るにつれ武士や町人にも門が開かれ、御師たちによる積極的な布教のおかげもあって江戸時代には一生一度の大イベントとしてお伊勢参りが大流行します。

内宮外宮のほか摂末社を含め合計125もの神社から成り立つ神宮は、毎日どこかで何かのお祭りが行われているといわれ、どのシーズンに訪れても清浄な信仰の姿を感じることができます。

季節の食・野菜・魚

寒鰤かんぶり

旬の冬を迎え、身にたっぷり脂を蓄えた寒ブリ。寒サバ、寒イワシ…など、この時期の頭に「寒」を頂いた魚介類は文字面だけでも数段美味しそうにみえてしまうもの。平目、ずわい蟹、帆立など冬を旬とする魚介類は数多く、舌から季節の到来を感じさせてくれます。

鰤は出世魚の代表で、地域差もありますがモジャコと呼ばれる稚魚からワラサ、ハマチなどのサイズを経ておおむね6kg以上に育ったものが鰤とされます。さらに大きくなったものを大魚(おおうお)、入道などと呼ぶ地方もあり、人間同様、鰤の出世レースもゴールななかなか遠いよう。

年取り魚としても、東日本の鮭に対して西日本では鰤が多く用いられます。日本のほぼ中央に位置する長野県では、県北部の長野市は鮭、中部の松本市は鰤を年取り魚とすることが一般的で、フォッサマグナを境に鰤/鮭文化が分かれると言われます。
寒ブリ

大根

日本最古の書物『古事記』にも登場する歴史ある野菜。仁徳天皇が皇后に贈った歌のなかに詠まれ、女性の白い腕の比喩として使われています。大根足といえば悪口のようですが、腕にたとえると途端に艶っぽい情緒をたたえた褒め言葉となるようです。

その太い根の様子から大根(おほね)と言われたのが語源で、日本では最も重宝されてきた野菜であり、東京原産の練馬大根、三重県伊勢の御園大根、京都の聖護院大根、鹿児島は桜島大根など各地で改良発展を遂げてきた歴史はまさに「ご当地野菜」のトップランナー。

煮物やおでん種としてホクホクに味の染みたのもたまらない冬の味覚ですが、堀った大根を束ねて吊るした「干し大根」は冬の風物詩として季語にもなっています。古民家の軒先に並ぶ大根は、古き良き日本を感じさせるいつまでも残したい情景。干した大根はたくあんなどの漬物にされますが、生干しの状態のものをざっと麹で漬けたのがべったら漬け。東京の庶民の味の代表ですが、徳川慶喜や昭和天皇も好んで食べたという意外に格式高いお漬物なのです。
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牡蠣かき

牡蠣が「海のミルク」といわれるのは、乳白色の身にミクルにも劣らない豊富な栄養やミネラルを含んでいるためです。グリコーゲン、亜鉛、タウリンなどを含有する牡蠣の滋養効果は抜群で、ジュリアス・シーザーやナポレオンといった英雄も好んで牡蠣を口にしました。シーザーに至っては、テムズ河の牡蠣を独占するためにイギリスに戦争を仕掛けたとの逸話まで残されているほど。

養殖には入り江や奥行きの深い湾が適しているといわれますが、その理由は波が穏やかなことと、海に流れ込む雨水が多いことにあります。山を巡り海に注ぐ雨水には、森の養分がたっぷりと溶け込んでいます。この養分が牡蠣のエサとなる植物プランクトンを豊かに育み、牡蠣をぷっくりと太らせるのです。そのため夏の雨が少ない年には牡蠣のサイズも小さくなってしまうと言われているほど。牡蠣を食べることは、同時に森の恵みを頂いていることにもなるのです。

「rのない月の牡蠣は食べるな」と、5月から8月は牡蠣食に適さないと言われるように牡蠣の旬は冬。寒いのをガマンしながら、殻ごと焼いた牡蠣を熱燗で流し込む。伸びる手が止まりません。逆に夏場がもっとも美味しくなるのが岩牡蠣で、おかげで一年中牡蠣を楽しむことができます。
牡蠣

 

関連項目

参考文献