二十四節気
小寒
冬至より一陽起こる故に
陰気に逆らふ故、益々冷えるなり
冬至を過ぎ、わずかずつではありますが日の長くなるのを感じ始めるこの時期。とはいえ、暦便覧にもいわれるように寒さはここからが本番で、寒の入りを迎え一ヶ月は厳しい「寒中」が続きます。雪でも降られると動くのも億劫になりますが、雪の下で冬を越させた「雪下野菜」とよばれるキャベツやニンジンたちは、この時期が寒ければ寒いほど、春先甘く美味しく変身しているといいます。つらいときこそステップアップの準備期間、人間も見習いたいものです。
七十二候
芹乃栄
芹が大きく葉を伸ばす時期。芹の語源は「競り」合うように生えるからといい、抜いても抜いても生えてくる生命力旺盛な芹は農家にとっては厄介者でもあります。芹の旬は春ですが、寒い時期に生える野趣の強い芹は「寒芹」として重宝されました。旧暦正月七日に行われた七草粥の第一番にも数えられます。
水泉動
花の水仙ではなく、水泉。「いずみあたたかをふくむ」と訓じることもあり、地中で凍りついていた泉の水が緩んでようやく流れ始める頃とされます。この候に行われるのが鏡開き。お供えしている間にすっかり乾燥した鏡餅も、熱をくわえると柔らかく融けだし美味しい香りを漂わせます。
雉始雊
雉がはじめて鳴き始める頃。雉の甲高い鳴き声はオスが発する求愛の歌で、実際に鳴きが活発になるのは三月頃ともう少し先のことです。暦では小正月を迎える時期で、正月行事もこれでひと段落。
宮中では正月の料理として、酒に軽く炙った雉肉を浮かべた「雉酒」が飲まれました。雉の旨みの染み出した熱々の酒はなんともいえない美味だそう。精進料理の影響もあってか、雉肉の代用に焼き豆腐を使ったものもありました。
季節のことば
寒の入り
寒の入りは一月五、六日頃で、この日から立春前日までの約一ヶ月が寒の内、寒中となります。文字通り一年で最も寒い時期にあたり、寒がりにとってはコタツから這い出すのにも一大決心を要する日々が続くわけですが、そんな甘え心を振り払うように「寒中◯◯」と銘打たれた行事が催される季節でもあります。見ているだけでも寒い寒中水泳は武道の寒稽古などが発祥で、空手や柔道などでも寒稽古がさかんに行われます。寒中托鉢は仏道修行の一環として行われるもので、横浜の総持寺、金沢の大乗寺などのものが有名です。
十日戎
正月十日のエビス様の縁日で、九日の宵戎、十日の本戎、十一日の残り福と三日間にわたって祭りが行われます。商売の神様として名高いエビス様。伊勢、近江、大阪と日本三大商人圏を擁する関西はさすがエビス信仰もさかんな土地で、兵庫の西宮戎、京都建仁寺の蛭子社、そして大阪今宮戎の十日戎は毎年大変な人出で賑わいます。「商売繁盛で笹もってこい」の掛け声も威勢良く、鯛や小判など縁起物をずっしりと飾った福笹を買って帰るのが慣例です。
エビス様といえば七福神の一角としても有名ですが、七福神のなかで純粋な日本出身の神様はなんとエビス様だけ。布袋、福禄寿、寿老人は中国出身、大黒、毘沙門、弁財天はインド出身と、実は七福神はとても国際色豊かな神様ユニットなのです。
小正月
元日の大正月に対して、正月十五日は小正月。一年の豊作を願うさまざまな行事をおこなう日として、農村では大正月以上に大切にされてきました。望正月、若正月、二番正月、花正月など多くの呼び名があるのも、各地でそれぞれに祝われていたことのあらわれです。
この日に小豆粥を食べることから粥正月とも。この日のお粥は必ずお代わりをして、「祝いを重ねる」のがポイント。大正月のお雑煮と小正月の小豆粥だけは、おしとやかなお嬢様でもいくら食べても構わないものとされていました。『枕草子』に餅粥(餅をいれた小豆粥)のことが書かれていることから、平安時代にはすでに行われていたことがわかります。
この時期の風習や催し
出初式
火事と喧嘩は江戸の華。出初式も江戸時代初期、明暦の大火を期にはじめられたとされていますが、実は江戸時代を通して度々幕府から「出初などと言って火事もないのに火消しが集り、そのうえハシゴの上で曲芸じみたことをするなど罷りならぬ」とのお達しが出されていたというから驚きです。もっとも禁止令が出されるほどに、庶民の風物詩として定着していたことの裏返しなのかもしれません。
現在のような出初式が誕生したのは明治になって消防組織が整えられてからですが、明治八年、初めての消防出初式はほとんどの隊員がまだ丁髷姿(ちょんまげすがた)だったとか。一月六日に行われるようになったのは明治四十年頃からとされています。
どんど焼き
清々しい正月気分を演出してくれる松飾りですが、新年の神様をお迎えする目印であって、いつまでも飾っていると逆によくありません。地域差はありますが関東では正月六日、関西は十四日までで取り下げるのが一般的で、この松飾りのある間を「松の内」と呼びます。これが過ぎると正月も終わり、日常のはじまりとなります。
役目を終えた松飾りを焼くのがどんど焼き。左義長、とんど、どんどん焼きなど呼び方はさまざまですが、三脚に立てた毬杖(ぎちょう)に門松や注連飾り、両目の入ったダルマなどを結わえて豪快に焚き上げます。その年の書き初めをくべて高く上がるほど字がうまくなるとか、この火で焼いた餅を食べると長生きする、一年間病気をしないといった言い伝えもあります。江戸の街では防火のため長く禁令が出されており、江戸っ子がどんど焼きを楽しむことはなかったようです。
鏡開き
元日、武士の家では床の間に甲冑を飾り、紅白の鏡餅をお供えして戦の神様をおまつりしました。お供えの餅は十一日になると下げられて食べられましたが、このとき手や槌でかち割ったのは、武士だけに切腹に通じる「切る」ことを嫌ったためだとされます。
もともとは、これも武士らしく「刃柄(はつか)の祝い」とかけて正月二十日に行われていた鏡開きですが、江戸幕府三代将軍徳川家光の月命日が二十日になったことからそれ以降は十一日に変更され、今にまで続いています。
伊勢のおかげ横丁では毎年一月十一日、横丁に飾られた鏡餅を開いたあとぜんざいにして観光客にサービスする鏡開きのお振る舞いが行われています。お伊勢様のご神徳たっぷり、ぜひとも食べたくなる一品ですが、数量限定なので要注意。
季節の食・野菜・魚
七草粥
「七草なずな唐土の鳥が日本の土地に渡らぬさきに七草なずな」
正月七日、七草を刻みながらこの歌を唱えて囃すのが伝統。地域によっては七草もらいといって、七歳の子が七日にご近所七軒をまわって七草粥をもらうという七づくしの縁起の良い行事もありました。「セリ、ナズナ ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ スズナ、スズシロ これぞ七草」と並べられた七種類が一般的ですが、地域によってはタラの芽を入れたり十二種類もあったりとフレキシブルに行われたようです。
農村では「七草粥を吹いて食べると田植えの日に大風が吹く」とされ、七草粥をフーフー冷ますのはNGとされていました。
春菊
名前は春先に菊のような黄色い花をつけることからで、菊菜とも呼ばれます。日本に渡ってきたのは室町期とされ、食用に栽培されるようになったのは江戸時代のこと。独特な香りのある春菊を食用にしているのは東アジア一帯だけだそうです。この香り成分には胃もたれ解消や消化促進の働きもあって、年末年始の暴飲暴食に疲れたお腹にはぜひ入れてあげたい一品。栄養価もバツグンで、カロテン含有量などはほうれん草にも負けません。春菊は胃腸に優しい「癒し系」野菜なのです。
鱈
魚偏に雪と書く、まさに冬の申し子的魚介類。白子たっぷりの鱈鍋は、「ザ・冬の鍋」といった貫禄すら感じさせてくれる冬の味覚の定番中の定番です。胃や舌も珍味とされ、小豆の煮汁で煮れば骨まで柔らかくなるともいわれて頭から尻尾まで味わいつくされてきた重宝な魚です。
一般に「タラ」といえば全身にまだら模様のある真鱈を指しますが、漁獲量も減り徐々に高級魚になりつつあります。真鱈と並んで冬の食卓を彩るもう一種類の鱈がスケトウダラで、こちらはタラコの親としても有名です。タラコの唐辛子漬けを明太子といいますが、これはスケトウダラが明太魚と呼ばれているため。真鱈の卵はいわゆるタラコにはなりませんが、北海道辺りでは卵をタレに漬け込んだ「真子のしょうゆ漬け」が作られ、ご飯のお供に酒のつまみにと大活躍することに。
鮟鱇
見た目こそグロテスクな深海魚ですが、味は絶品。身はもちろん内臓こそが鮟鱇の真骨頂といったところで、とも(ヒレ)、ぬの(卵巣)、肝、水袋(胃)、エラ、皮、柳肉(身)の各部位は鮟鱇の七つ道具と呼ばれます。胃袋までが美味しくいただけるように、骨以外捨てるところがないといわれるありがたいお魚です。
茨城県大洗は鮟鱇の産地として知られます。旬を迎える寒い時期、水揚げされた鮟鱇は体表のぬめりを避けて吊るし切りに。普通の鍋ももちろん美味しいですが、本場で味わいたいのが肝をペースト状になるまで炒めたところに具をたっぷり投入して作るどぶ汁です。本格派は水を使わずに野菜や身の水分だけで煮込むため、濃厚な肝の旨味がこれでもかと具に染み込んだ最高の鮟鱇料理となります。
アンコウ目には食用になるキアンコウの仲間のほか、鼻の頭に疑似餌をつけたお馴染みのチョウチンアンコウ、ヒレを脚のように使い海底をノソノソあるくカエルアンコウなどがいます。
- 新版 美麗写真でつづる 日本の七十二候 晋遊舎
- 二十四節気と七十二候の季節手帖 山下 景子著 成美堂出版