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二十四節気と七十二候

二十四節気と七十二候について

知らないようでとても身近な二十四節気と七十二候

 
「暦の上では夏ですが」と、ニュースや天気予報の中で5月になると毎日のように聞く「暦の上では」は、二十四節気と七十二候のことです。

空を見上げればいつもそこにある太陽や月が教えてくれる季節の移り変わりの兆し「二十四節気」。誰の目にもとまる季節がもたらす恵みの兆し「七十二候」。そこから「気」と「候」を取り出し、誰もが知っている「気候」という言葉が生まれました。気候は「風土」という意味を含んでいます。

気候を知り予定を立てて行動する、季節の節目となる食文化や伝統行事を大切にする…毎日のように当たり前にしていることの指針となった「暦のはじまり」へご案内します。

暦のはなし

 
1日を単位として月が教えてくれる1ヵ月を考え、太陽がくれる1年を把握する「暦」。その日を生きのびることから「生活」へと進み、共に今と未来を考えるために進化してきた大別3つの暦があり。現在も日本のどこかで使われています。今使われている西暦ことグレゴリオ暦を「新暦」、それ以前の全ての暦を「旧暦」と言います。

【旧暦大別キーワード】
・日を把握する「太陰暦」
・季節を把握する「太陰太陽暦」
・春分の日を求めて進化した、グレゴリオ暦以前の「太陽暦」

文字のない太古より世界中の人々に体感として理解されていた月の動きに基づく太陰暦の知識も、干潮・満潮の算出や大潮・小潮などの算出に役立っています。

二十四節気と七十二候は「太陰太陽暦」の1つ。今もなお、季節の恵みや伝統行事として私たちの生活とともにあります。
文明が栄えて農耕が盛んになると四季を把握する重要性が増すため、春分・秋分・夏至・冬至の4つの日を軸に、ひと月を30日として12ヵ月を定めました。1年約11日のズレは昼夜の長さが同じとなる春分・秋分ではっきりとわかるので、19年に7回の13月「閏月」を設けて調整していました。

二十四節気と中国の歴史

 
田んぼの風景
 
二十四節気も、農業の推進と発展のために紀元前400年頃中国で生まれました。
太陽の通り道「黄道」を元に、季節を知るために大事な「八節をさらに3つに分け、天の動きや季節の特徴を元とした24のわかり易く美しい言葉が名前として定められました。

24を2で割ると12ヶ月となり、ひと月の概念と季節の概念が一致します。1つの節気は15日間なので、1年は360日となります。

春分・秋分の確立が早かった中国では、本当の1年が約365日であることは早くから認識されていましたが、農業の指針となるわかり易さを優先したと考えられます。閏月の算定や発表によって国の知力と権力を知らしめ民に感謝される、優れた「政策」だったのです。

【二十四節気キーワード】
二至二分(にしにぶん) : 春分・秋分・夏至・冬至。
四立(よつだて) : 立春・立夏・立秋・立冬。二至二分の間に配された四季の始まりの日。
八節(はっせつ) : 二至二分と四立

「二十四節気」を命名の神業とするならば、それを3つに分けた「七十二候」は誰にでもひと目でわかる名キャッチコピー集。気候の様子、動植物の様子…目にとまりやすい季節の特徴が織り込まれた、情緒的でありながら楽しさもまた格別な文字が並びます。5日ごとに季節のうつろいを認識することは、成長の早い作物の管理や農作業の正確さのために大切なことでした。人々にその日の訪れを楽しみにさせるために、また、気をつけないといけないことを忘れないために、折々に変えられてきました。

中国でも公式な暦は1912年よりグレゴリオ暦が使われており、それ以前の太陰太陽暦は全て「農暦」と呼ばれています。農業を支えるために、すなわち、豊かな国力のために季節のうつろいを知ろうと進化した歴史と、現在も農業を支える現役の暦であることを同時に言い表した、とても素敵な「新語」です。

七十二候と日本の暦

 
現存する最古の歴史書である「日本書紀」に、554年に百済を通じて伝来した二十四節気「元嘉暦」の記載が登場します。二十四節気は何度も海を渡り、七十二候もそのままに日本の暦となりました。日本で使われた全ての暦を「和暦」と言います。最も長く使われたのは862年に伝来した「長慶宣明暦。公的な暦として800年以上も使われました。

長慶宣明暦 〈国立国会図書館ウェブサイトより〉

長慶宣明暦 〈国立国会図書館ウェブサイトより〉

長慶宣明暦が役目を終えたのは江戸時代。1685年に「貞享暦」が制定されました。日本の気候風土にぴったりの「本朝七十二候」が作られ、生じていた2日間のズレも修正されました。作ったのは、数学・天文暦学・囲碁将棋・神道などに秀でた江戸は麻布の人「渋川春海。本人はこの暦を「大和暦」と名付けています。

・中国と日本では風土が異なりそのままでは農業の指針とならない
・中国の四季を元にした七十二候が日本と異なるのは当然
・日本の実情に合う七十二候を作るのは重要
・独自性を加味してこそ暦として意味がある
朝廷に向けたこれらの渋沢の主張は、823年間も使われた暦があらためられる驚きとともに話題を呼びました。

公的な暦(本暦)の中から一般の生活に必要な項目だけを抜き出したものを「略本暦」と呼び、グレゴリオ暦に公的な座を譲った1874年(明治7年)に発行されたものに掲載された七十二候が現在も使われています。桃の節句・端午の節句・七夕など、今も各地で大々的に祝われている五節句の「暦日」、季節のうつろいをより身近に感じられる節分・八十八夜・入梅・土用・二百十日などの「雑節」を足し、よりいっそう日本の気候風土に寄りそう内容となっています。より正確な農業指標とするため何度か変わってきた七十二候ですが、言葉にこめられる情愛の精神は、いつの時代の和暦にも受けつがれてきました。和暦の時代は、1872年(明治6年)1月1日のグレゴリオ暦の発布をもって終わりを告げました。

略本暦 〈国立国会図書館ウェブサイトより〉

略本暦 〈国立国会図書館ウェブサイトより〉

おわりから始まることのはぐさ

 
西洋に倣うことを良しとした幕末以来、短いようで長い時間がたった今。海外のことを素早く知ることが出来るようになり、逆に、日本らしさを大切にしたいと思う機会が増えました。
暦の言葉をたどって、季節のうつろいの兆しを見つけましょう。5日後に起こることを楽しみにしてみましょう。花鳥風月を愛で、季節の野菜や旬の魚介を味わいましょう。
その楽しい行為のすべてが、日本の気候風土を愛情を持って観察する科学の目と芽を育みます。今の子どもたちが大人になる時も、そのまた子どもが生まれる時も、日本の四季を彩る美しい言葉たちが、毎年同じ頃に変わらずに見つけられるよう伝え残していきたいものです。

関連項目

参考文献