穀雨
桜の熱狂に一息つけば、ボタン、ツツジ、フジ、シャクヤク…色とりどりの花がほころび、世界はますます華やかになっていきます。霜の心配もひと段落して、草木の苗もにょきにょきと元気に芽を出し、爽やかな風にのって虫たちの羽音も聞こえてくるよう。開いたばかりの若葉いっぱいに恵みの雨を受け止めて、木々もたっぷりと潤いを吸い込んでいきます。
季節の草花
牡丹
大きさ、風格、美しさ、どれをとっても「百花の王」「花の女王」の名にふさわしい貫禄のボタンの花。原産地は中国の北方で、日本に伝わったのは弘法大師が唐留学の帰路に持ち帰ったのが最初だという伝承もあります。
奈良葛城の石光寺、初瀬の長谷寺などは江戸時代からボタンの名所として有名ですが、他にも北海道から九州まで、100年200年の歴史を持ったボタン園が各地にたくさん残っています。寒さにつよいボタンの特性と、絵画や着物の意匠などにも愛されたボタン人気の賜物といったところ。大輪八重咲の絢爛な花ぶりにふさわしく、品種名にも「白王獅子」「麒麟の司」「金閣」など堂々たる名前が並びます。4月の下旬から約一ヶ月ほど、貴人たちが愛でた美しい花姿を眺めることができます。
ボタンは、似た種類のシャクヤクを台木にして接木で増やします。シャクヤクの方が育ちやすいためですが逆に枯れるのも早く、接木の場合は根元に土を高く盛ってボタン自身にも根を張らせます。そして数年後、シャクヤクの台木を切り取って植え替えるとより強く、寿命も長いボタンになるという仕掛け。美しい花を育てるためには、見えないところで手間暇がかかっているのですね。
花言葉:風格、富貴、思いやり など
藤
だんだんに日差しも厳しくなってくるこの季節、神社の境内や公園に作られた藤棚は静かな日陰を提供してくれる格好の涼み場所に。やれ一息と駆け込んだら、蜜集めに忙しいハチと出くわしてひと慌て、なんてこともありますね。
日本の山野に自生するフジには、蔓が右巻きのノダフジと左巻きのヤマフジの二種類があります。ノダフジの名前は、フジの名所大阪の野田にちなんで植物学者牧野富太郎博士によってつけられました。寿命の長い植物で、樹齢1000年以上というような長寿の木もみられます。蔓をよく伸ばして広がり、たくさんの花をつけることから「子孫繁栄」の縁起の良い木ともされました。
藤色というように花はやさしい淡紫ですが、白い花房を垂らすシロフジもまた端麗な美しさ。二色のフジが並んで咲いているのにもまた格別の風情があります。
日本最大のフジといわれる埼玉県牛島のフジは、藤棚の面積がなんと800平方メートル、長いものでは花房を3メートル近くまで伸ばし、国の特別天然記念物に指定されています。昔からフジの名所として名高く、明治時代には5月ともなれば、開通間もない東武鉄道が牛島のフジの見物客で賑わったそうです。
花言葉:優しさ、恋に酔う、歓迎 など
満点星
芽吹きが旺盛で刈り込みに強いため、丸に、四角にときれいに樹形を整えられて植栽に重宝されます。昔の照明器具の灯台に似ていることから「灯台ツツジ」と呼ばれたのがなまって「ドウダンツツジ」になったそう。
4月、木いっぱいに白い花をつけた姿は遠目に見てもきれいですが、近寄ってよく見るとひとつひとつの花が小さな壺を返したようなかわいらしい形で、枝からひょろりと釣り下がった様子もなんともユーモラス。中国名では「満天星」と書きますが、丸く刈り込まれた木の花々が陽を浴びた様子は、まさに真っ白な星を散らした夜空のようにも見えてきます。
刈り込みのときに花の芽を切ってしまうと、この美しい自然のプラネタリウムが見られなくなってしまうので注意しましょう。
ドウダンツツジは花期だけでなく、秋の紅葉シーズンにも小さな葉を深い赤に染めて景色をつくり出します。手もかからず、強く、ツーシーズン楽しめるというとてもありがたい木ですね。
花言葉:節制、上品、返礼 など
郁子
アケビ科のつる性植物で、4〜5月頃に口の裂けたラッパのような花を総状に咲かせます。白地に紫の筋を引いたような花は、爽やかさと鮮やかさがほどよくマッチした独特の味があり、自生種ですが門口のアーチなど観賞用にも使われました。
秋にはニワトリの卵よりやや大きいほどの甘い実をつけ、山里では貴重な甘味に、こどものおやつにと喜ばれました。その昔、天智天皇が山狩りの最中に元気な老夫婦に出会い、その長寿の秘訣を聞いたところこの実を差し出され、ひとくち食べて「むべなるかな(なるほどもっともだ)」と感心したという伝説があり、これが「ムベ」の語源となったと伝えられています。この伝説にゆかりの近江八幡市の神社では、今も皇室にムベの実を献上しています。
ところでムベを漢字で書くと「郁子」。ずいぶん読みにくいですね。他にも「木通」「黄心樹」「接骨木」など、この時期に花を咲かせる木々にはずいぶん難読漢字が多いようです。読み方はそれぞれ「あけび」「おがたま」「にわとこ」。
花言葉:愛嬌
季節の生き物
春蝉
春の松林で、ギーギー、ジージーと騒がしい声が聞こえたら、その声の主はハルゼミです。夏を盛りにする他のセミより一足早く4〜6月頃に鳴き出し、体長は3センチから4センチ弱とセミのなかでも小柄ながら一斉に鳴き盛るとなかなかのボリュームに。
ハルゼミは警戒心の強い種で、鳴き声のする方にちょっと足音を近づかせても鳴き止んでしまったり、松の木の高いところにとまっているため実物を目にするのは困難。そっと観察したくても、声はすれども姿は見えず…ということになってしまいがちです。ハルゼミの名前はもちろん春に鳴くセミということですが、松林に住むことからマツゼミともいわれます。
西日本に分布するヒメハルゼミはハルゼミよりももう一回りほど小ぶりですが、こちらも森で大合唱することで知られています。昔から虫の鳴き声に風情を感じてきたのは日本人の独特な感性だそうで、ただの騒音ととらえずに虫の音に季節を覚えたのは、それだけ自然に寄り添って暮らしてきたことのあらわれなのでしょう。「セミ、うるさい!」などと思わずに、小さなコーラス隊のステージにやさしく耳を傾けたいものです
羊
寒さもすっかり和らいだ4月から5月は、羊毛の収穫シーズンでもあります。冬の間にもっさりと毛を伸ばした羊たちは、バリカンや毛刈りバサミであっという間につんつるてんに。一頭から取られる羊毛はおよそ4キロ程度といわれます。
羊はもっとも古い家畜の種のひとつで、中東あたりでは一説には1万年近く昔から飼育されていたといわれます。毛は衣類や防寒具に、肉や乳は食用に、皮は大切な証文を記すための丈夫な羊皮紙に、隅から隅まで利用できる貴重な財産とされました。
日本にも古代から伝わっていたようですが、寒冷な風土のためかあまり定着せず、飼育された遺物も見つかっていません。本格的な牧羊が始まったのは明治以降のこと。十二支には数えられていますが、辰(龍)や寅(虎)と並んでリアリティのない生き物だったのかもしれませんね。
世界の宗教には教義上豚肉や牛肉を避けるものもあるため、国同士の公式晩餐会などでは相手を選ばない食材として羊肉がメインディッシュになることが多くあります。日本でも宮内庁御料牧場では伝統的に羊の飼育が行われ、世界でもトップクラスの品質を誇る羊肉の生産所として有名です。
鯵
アジの旬は初夏、5〜7月。「魚へんに参」と書くのはこの時期、つまり旧暦の3月頃に美味くなるからだとか、アジというのは昔から味がいい魚として知られていたからだ、とか語源に関する説がたくさんあるのもアジの面白いところで、この辺の事情は諸説あってはっきりしませんが、それだけ昔から好んで食べられた魚であることは確かなようです。「アジ」というのは古い言葉では「お魚さん」くらいな意味のありふれた名前で、最も一般的な魚がアジだったのだとする説もあります。
今でもアジは日本中どこでも獲れて、スーパーなどでもお手頃な値段で並んでくれる庶民に嬉しい魚です。江戸の町民もアジを好んで食べましたが、今と違って自動車や冷凍保存などのない時代、その日の日中に獲れた新鮮なアジが江戸の町まで運ばれるのは、どんなに急いでも夕方に。この夏の夕方に街中に届く新鮮なアジは「夕鯵」といって、江戸っ子はボテ振りが夕鯵を担いで売りにくるのを楽しみに待ったそうです。
愛されたアジには調理法もたくさんあって、江戸の頃から寿司、刺身、炙りに煮魚とさまざまに食べられてきました。アジの身をたたいて薬味や味噌とまぜあわせたなめろうは、漁師飯が発祥というだけあって暑さにバテた体にもいくらでも入ってしまうありがたい料理。軽くしめたアジでつくった鯵寿司も鎌倉や伊豆の名物に
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