浮世絵「六十余州名所図会」にみるニッポンの絶景
江戸時代を代表する浮世絵師・歌川広重。
定火消しの家に生れながら浮世絵で身を立て、その作品は同時代のゴッホにも大きな影響を与えたという天才ですが、そんな彼の作品のなかに日本各地の名所を紹介した「六十余州名所図会」(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)というものがあります。
北は東北陸奥国から、南は九州薩摩国までの68カ国からそれぞれ1ヶ所、そこに江戸を加えた全国69ヶ所の名所を紹介した連作で、現在でいえば観光パンフレット、絶景写真集のようなものといえるでしょうか。
この連作がスタートしたのは、ペリーが黒船を率いて日本にやってきた嘉永6年のこと。今から160年以上も前のことですが、大胆な構図や画題は現代にも十分通用する芸術性をもっています。
そして「六十余州名所図会」が面白いのは、名所紹介という性格上、描かれた一枚一枚の場所が特定できることです。画題に選ばれた行事や景色には、160年後の今でもそのままに見ることのできるものがたくさんあるのです。
このシリーズでは、彼の作品の中から特に見応え、比べ応えのあるものを選りすぐってご紹介いたします。
江戸の天才絵師が唸った景色ですから、写真の参考になるのでしょう。
今も残る名所を見にゆけば、江戸時代の観光カタログ片手に気軽なタイムスリップ、という気持ちにもなれるかもしれませんね。
今回は冬に関する浮世絵を紹介します。
武蔵 隅田川 朝の雪
東京都 台東区浅草近辺
隅田川、雪、朝焼けのトリコロール
スカイツリーをはじめとして、現在では高層建築の立ち並ぶ東京隅田川の周辺。この図絵に描かれたのは今戸橋、待乳山聖天のあたり(現・台東区浅草近辺)で、江戸の当時には図絵のように船宿が軒を連ね、猪牙舟(ちょきぶね。現在でいう小型高速艇)が行き交う水上交通のさかんな場所でした。
というのも、江戸時代、今戸橋の先には幕府に公認された唯一の遊郭、吉原が置かれており、街の中心地から隔離された「別世界」となっていました。猪牙舟は吉原への客を乗せた「別世界への渡し舟」としてもおおいに利用されていたのです。
多色刷りのできる浮世絵でありながら、広重は雪の白、水の青、そして朝焼けの赤の3色のみで隅田川の美しさを表現しています。隅田川は雪の名所として名高い場所で、広重もそれを意識して画題としたようです。
あえて色を抑えるという表現方法は、写真の撮影にも応用できるところがありそう。この絵のように、一面真っ白になった雪の日などに限定のテクニックかもしれませんが。
浅草寺、待乳山聖天、隅田川の屋形船と、現在でも浅草周辺は東京観光の人気スポットが目白押しです。最近では今戸にある今戸神社が「恋愛成就のパワースポット」として若い女性を中心に話題を集めています。
上野 榛名山雪中
群馬県高崎市
上毛三山の雪景色
赤城山、妙義山とあわせて「上毛三山」とよばれる山々の一角をなす榛名山。地元群馬では特に親しまれ、郷土のシンボルとして仰ぎ見られています。
そんな榛名山も約1500年前までは噴火を繰り返していた活火山であり、そのために山容には切り立った断崖や、奇石、奇岩が目立ちます。図絵にも、そうした榛名山の特徴がよく描かれています。
空は夜、あるいは雪を降らせる厚い雲の様子でしょうか。暗く灰色に塗り込められていますが、それが逆に雪の白を引き立たせています。そして構図の中心に置かれた雪に映える朱色の堂宇は、現在も全国から信仰を集める榛名神社の建築群です。
榛名神社は古くから山岳信仰の聖地として、神道と仏教を等しく尊んで場所でした。ここに描かれたのも、十一面観音像を安置したといわれる「東面堂」というお堂でしたが、残念ながら明治時代の廃仏毀釈で取り壊されてしまい現存しません。
ただ、東面堂の下にみえる橋「神橋」は、何度か掛け直されてはいますが、現在も朱色の欄干の美しい姿をみることができます。
橋の下を流れるのは、修験の開祖・役小角が修行したという伝説の残る「行者渓」。これもまた100年、1000年と時が止まったかのような奇景を今に伝えています。
若狭 漁船 鰈網
福井県若狭湾
御食国の伝統漁法
リアス式海岸の続く若狭湾は、日本海側でも有数の豊かな漁場として名高く、かつては伊勢志摩とならんで朝廷に食糧を献上する「御食国(みけつくに)」とされていました。
特産品も数々ありますが、冬場に旬を迎える若狭カレイ(笹カレイ)の一夜干しは「雲上の珍味」と讃えられたほどの逸品。その若狭カレイの伝統漁法を描いたのが「若狭 漁船 鰈網」の図です。
船に乗った漁師たちは、ともと舳先に分かれて海底まで沈めた大きな網を引き上げます。図絵には、網を引く人のほか、舵を操る人、帆を調整する人なども活き活きと描かれています。
今この漁法は行われていませんが、若狭湾では漁船に乗り込んでの漁業体験イベントなども開かれています。
幾艘も浮かぶ船の後ろにみえるのは、若狭湾を抱くように伸びる、現在では大飯原発が置かれていることでも知られる大島半島でしょうか。
加賀 金沢八勝之内 蓮湖之漁火
石川県金沢市、内灘町
今はなき大湖の姿
蓮湖とは、現在の金沢市と内灘町にかけて広がっている河北潟のことで、図絵には漁火を焚き白魚を取る伝統漁法が描かれています。しかし、かつては20平方キロメートル以上の広さを誇った湖は干拓事業によって大幅に縮小されており、現在、往時の姿をみることはできません。
干拓事業前の河北潟は海水と淡水の入り混じる汽水湖で、魚種も豊富な豊かな漁場として栄えていました。現在の河北潟では、広大な農地や巨大な水門などが干拓事業の歴史を物語っています。
また図絵のタイトルに「金沢八勝」とありますが、横浜の金沢地域の名所を集めた「金沢八景」とは全くの別物です。こちらの八勝(八景)は加賀金沢の景勝地であり「金城八勝」ともよばれます。
蓮湖の奥、夜空に堂々としたシルエットを現すのは北陸の名峰・白山。白山には日本中に3000社あるといわれる白山神社の総本社が鎮座し、富士山、立山とともに日本三霊山と並び称されています。
壱岐 志作
長崎県壱岐市
南の島に降る雪?
壱岐島は対馬と東松浦半島に挟まれるように玄界灘に浮かぶ離島で、古くから日本列島と朝鮮半島を結ぶ交通の要衝として重視されていました。卑弥呼で有名な「魏志倭人伝」にも、朝鮮半島から邪馬台国に至る中継地点として「一支国」の名が記されています。
また日本の神話では、本州や九州、四国などとともに神様が最初に産み出した八つの島々のうちのひとつとされています。古代から、壱岐が重要な島だと認識されていたことを反映しているのでしょうか。
さて、壱岐島は対馬海峡を流れる対馬暖流のおかげで一年を通して温暖で、雪が降ることは珍しく、積もるほどになることはまずないといわれます。では、なぜ広重は南の島に雪を降らせてしまったのでしょう。
実は壱岐島は、白い砂浜が雪のようにみえるということから「雪州」と呼ばれることがありました。この「雪」がなまって「いき」という島名のもとになったという説もあるほどです。
広重はここからインスピレーションを働かせて(あるいは「誤解」して)一面雪の壱岐を描いてしまったのかもしれませんね。
図絵のなかでは、右上の海上に浮かんでいるのが壱岐島で、対岸の松浦市志佐から島を眺める構図になっています。
紀伊 和哥之浦
和歌山県和歌山市和歌浦
古来歌に詠まれた名勝地
挑戦的な構図の多い「六十余州名所図会」のなかでも、大小5羽の鶴を大空に配したこの一枚は、ひときわ優美な印象を残すものになっています。
広重がこのように大胆に鶴を飛び交わせた理由は、『万葉集』のなかにみつけることができます。
時は奈良時代、三十六歌仙のひとり山部赤人は、天皇のお供で和歌浦を訪れた際に一首の歌を詠みました。
「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」
和歌浦の葦辺に羽を休めていた鶴が鳴く様子を詠んだものですが、これが和歌浦の代名詞のようになり、「和歌浦=鶴」というイメージができあがったのです。
鶴たちの下に目を転じると、特徴的な三段続きの橋がみえますが、これは和歌山最古の橋である「三断橋」。橋の先にあるのは妹背山とよばれる島で、島内には紀州徳川家ゆかりの名刹・海禅院の多宝塔も描かれています。
現在は鶴こそいませんが、上記の三断橋や、赤人が鶴の和歌をよむきっかけとなった玉津島神社など、歴史を感じることのできる名所が数多く残る和歌浦。図絵と見比べながら訪れるには最も面白い場所のひとつかもしれません。