小正月、旧正月って何をするの? 節分はもともと大晦日だった? …時代とともに忘れられがちな新春の行事やいわれを振り返ってみましょう。
正月、小正月、旧正月…いつまでがお正月?
「もういくつ寝るとお正月♪」指折り数えて待ったお正月も、過ぎればあっと言う間。正月飾りも片付けて職場へ学校へ…となるわけですが、お正月のはじまりは1月1日とわかりやすいものの、ではおしまいは?となるとちょっと悩んでしまいます。
一般に正月飾りを飾り付けておく「松の内」までがお正月と意識しやすいですが、これも関東では7日、関西では15日が優勢であったりと地域によって差があります。15日は「小正月」と呼ばれ、ここでも様々な年頭行事が目白押し。そして20日には「二十日正月」がやってきて、お年取りの魚や餅花はこの日に下げられることになっていました。
これでひと段落と思いきや次に控えているのが「節分」と「立春」。かつては新しい春のはじまる立春こそが「新春」であって、一年のはじまりだと考えられていました。その節目となるのが節分というわけです。そして立春の前後に訪れるのが、旧暦の正月「旧正月」です。日本では馴染みが薄れていますが、他の東アジア圏では正月以上に盛大に祝う国も多く、2015年は2月19日、2016年は2月8日が旧暦元日に当たります。
お正月は年に3回やってくる?
なぜこのようにいくつもの「お正月」ができたのか。そこには日本人の生活リズムと暦の変化が深く関わっています。
月の満ち欠けを自然のカレンダーとしていた大昔の日本では、満月を一ヶ月のスタートととらえていました。そのため一年のはじまりも満月の日となり、この日に盛大な新年の祝いを行いました。
ところが、やがて中国大陸から暦が伝わると、ひと月は新月から次の新月までと区切られていたのです。この暦にあわせると、今まで月初めだった満月は「十五夜」というように月の真ん中になってしまいます。それでも長年の習慣はなかなか変えづらいもの。お正月の行事も一部は新しい暦にあわせて行うようになったものの、多くはそれまで通り最初の満月の日の行事として残されました。これが小正月のはじまりで、お正月は1日の大正月、15日の小正月と2分割されることになったのです。
それから一千数百年後、明治になると月を基準としたそれまでの暦から太陽暦への大転換が行われます。こうしてさらに新暦の正月と旧暦の正月「旧正月」が分かれ、日本には正月、小正月、旧正月と都合三度も正月がやってくることとなったのでした。
小正月
正月の15日を小正月といいます。現在では地域差もありますが、この日までを松の内として正月を祝い、これ以降お飾りを外すのが古くからのならわしでした。
小正月の行事
役目を終えた正月飾りやだるまなどを盛大に焚き上げるのが「どんど焼き」で、全国で小正月の恒例行事とされています。門松、注連縄などを高く組み上げた支柱に結わえて燃やし、この火にあたったり、この火で焼いた餅や団子を食べると一年無病息災などといって喜ばれました。書き初めをくべて天高く舞わせる「吉書揚げ」の風習も残ります。
片付けた門松の代わりに、小さく丸めた餅を木の枝に挿して飾る「餅花」や、白木の枝を幣のように削り出した「削り花」を飾るのも小正月の伝統。ここから小正月を「花正月」、小正月から月末までを「花の内」とよぶこともあります。
小正月明けの16日は「薮入り」で、昔は奉公人が里帰りできる数少ないお楽しみの日でした。この日に帰省するのは、小正月が古くからご先祖さまの魂をまつる大切な日とされていたからです。地域によっては、このとき親の健在を祝福して子供から親に餅を贈る習慣がありました。親の健康長寿を祈ったこのお餅、その名も「年玉」。諸説ありますが、お年玉のルーツは子供から親に贈るものだったともいえるわけです。
横手のかまくら祭
秋田県横手市では、旧暦の小正月にあわせてかまくら祭りが開催されます。400年ほど前から、武家の町では子供の成長祈願として、商人町では水の神様をおまつりするためそれぞれにかまくらをつくっていたのが発祥で、現在では家々につくられたかまくらと、数多くのミニかまくらが幻想的な風景を作り上げる街をあげての雪祭りへと発展しました。桂離宮を世界に広めた建築家ブルーノ・タウトが横手のかまくらを観てその美しさを絶賛したという逸話も伝わります。2015年の開催は2月の14日から16日まで。
鳥羽の火祭り
愛知県西尾市の鳥羽神明社に伝わる「鳥羽大篝火」は、旧暦の正月7日にあわせて行われる豪快な火祭りで、天下の奇祭として重要無形民俗文化財にも指定されています。東西に分かれた氏子たちが5メートルにもなる巨大松明(すずみ)の中から神木をとりあう速さを競うもので、1200年という長い歴史を誇る地域の一大行事。もともとは火の燃え具合などによって一年の天候、作物の出来不出来を占った農耕予祝行事で、巨大松明の燃え盛る迫力ももとより、正月から小正月にかけて行われていた古い祭りの名残を見ることができる興味深い祭事です。現在では2月の第二日曜、同社例大祭にあわせて執り行われます。
秋田のなまはげ
戦後から大晦日の風習となりましたが、なまはげは長く小正月に行われていた年中行事でした。ツノを生やしキバをむき出したなまはげが「泣く子はいねがー」と叫びながら家々を回り、家の主人は正装で出迎え酒やごちそうをふるまいます。
一見鬼のようにみえるなまはげですが、小正月の行事だったことからもわかるように、その正体は新年に訪れる歳神さまだとされます。なまはげを迎えた家では、その蓑から落ちたワラくずも決して捨てずに病気封じのおまもりとしますが、こんな習慣にもなまはげが神様としてもてなされていた様子が窺えます。赤なまはげが男、青なまはげが女で、男女一対の神の使いとする地域もありました。
節分、立春と旧正月の風習 一節分の由来と今一
「元祖お正月」立春と、「本家大晦日」節分
農業を生業としていた古代の人々にとって、作物の芽生える春は最も重要な季節で、一年は春からはじまるものと考えられていました。この春の始まりが「立春」。つまり一年は立春の日からはじまるというわけです。今でこそ前日の節分ばかりがクローズアップされますが、本来節分は立春という新年のための年迎え行事をおこなう日であって、立春が元日、節分は大晦日といった関係だったのです。
立春が年初めであったことは、旧暦では元日が立春の前後になるように設定されていたことからもわかります。また今でも新年を「新春」とよぶことにも、その名残をみることができます。
慎ましい日本の立春と、大にぎわいのアジアの春節
旧暦では立春と正月は不可分の関係でした。元日を迎える前に立春になることを「年内立春」、元日を迎えてからの立春を「新年立春」といいます。元日と立春がピッタリ重なるのが「朔旦立春」で、たいへん縁起のよいこととして喜ばれました。
立春の行事として、日本では禅宗などで「立春大吉」と書かれた札を門に貼る習慣があります。四文字全て左右対称の字面が縁起の良いものとされたためです。また古くは立春の朝にみる夢が初夢だとされ、節分にあわせて寺社から宝船の絵が授けられることもありました。
いっぽう中華圏では旧暦正月を「春節」とよび、どことなく慎ましやかな日本の立春とは対照的に、たいへんなお祭り騒ぎで新春を祝います。日本でも各地の中華街などで春節のお祭り気分を味わうことができ、特に横浜中華街では春節のおよそ2週間にわたり街全体で採青(獅子舞)などのイベントが繰り広げられます。中国では年越しをソバならぬ年越し餃子で過ごす風習もあるそうです。
節分の意味
節分とは文字通り「季節を分ける」ことで、春夏秋冬の四季それぞれの区切りとして年に4回訪れます。なかでも特に立春前の節分が強調されるのは、立春が一年のはじまり、一番大切な区切りとされたためです。立春前の節分は「年越し」や「年取り」とも呼ばれ、まさにもうひとつの大晦日でした。
豆まき、鬼退治と鬼迎え
節分の行事といえば「鬼は外」の豆まきですが、なぜ鬼退治に豆なのでしょう?由来を探ってみると、豆まきと鬼退治にはそれぞれ別のルーツがあるようです。
鬼を追い払う行事は、宮中に伝わった「追儺(ついな)」という儀式がもとになっています。方相氏という四ツ目の恐ろしい神様が鉾と盾をもって悪い鬼たちを追い出すというもので、発祥は中国唐時代、宮中では12月の大晦日に行われていました。このときまわりの役人たちも邪気を払う桃の弓や葦の矢をもって鬼を追いましたが、豆は登場していません。
豆まきの起源にも諸説があるのですが、どうやら大本は立春の農耕儀礼にあるようです。立春は春のはじめであり、一年の農業が滞りなく進むよう祈りが捧げられました。立春に豆をまくのも「今年もこんなにたくさん実りますように」との願いを込めた、農村発の豊作のおまじないだったようです。
やがて追儺の儀式が節分に引っ越して豆まきと出会ったときに「鬼は炒り豆に弱い」というような伝承が生まれたのではないか考えられています。鬼追いには他にも、するどいトゲで鬼の目を突くヒイラギや、強烈な悪臭が魔除けとなるイワシの頭などが用いられました。
ところで日本には、鬼は悪者ではなく、ご先祖様が悪霊や災いから子孫を護るために姿をかえて現れたものだという信仰がありました。節分に現れる鬼は、かつては追い払うどころか丁重にお迎えするお客様だったのです。異形の神と鬼の混同はなまはげ行事などにも見られるのですが、子孫のために帰ってきたのに豆を投げられ追い出されのたのでは、ご先祖さまもずいぶんがっかりしたことでしょう。
関東の節分事情
節分には、各地の寺社で豆まきが行われます。首都圏で最も有名なのが成田山新勝寺。力士や芸能人が特別福男として豆をまき、大いに盛り上がります。維新前後にはずいぶん廃れたもののすぐに復活したといいますから、庶民も楽しみにしていたようです。成田山の豆まきでは「鬼は外」の掛け声がありません。これは、ご本尊のお不動様の前では鬼も改心してしまうから、とのこと。
東京の鬼王稲荷、奈良の金峯山寺など、鬼にゆかりの深い社寺には「鬼は内」と唱えるところも。探してみると各地に意外なほどたくさんあるようです。
関西の節分行事
関西でも大阪成田山の節分は「不動」の人気で、毎年多くの芸能人が福を授ける豆まき役に。兵庫の中山寺では、地元宝塚の宝塚歌劇団生が毎年福娘をつとめることもあって多くの参拝客が詰め掛けます。
京都で高い格式を誇る吉田神社では、節分にあわせ古式に則った追儺式が行われ、在りし日の宮中行事の伝統を垣間見ることができます。方相氏に追われる赤青黄三色のカラフルな鬼も見所。
関西の節分といえば、ここ数年で一気に定着した感のある「恵方巻き」があります。もとはごくごく限られた地域の風習だったものがコンビニ業界などに「再発見」され、大ブレイクしました。また、再発見といえばここ数年じわじわと認知度を高めているのが「節分おばけ」です。京の花街などにあったといわれる、節分の日に変装して寺社参りをするという風習が再現されたもので、和製ハロウィンとして京都を中心に広がりを見せています。
旧正月に残る祭礼 大分の修正鬼会と熊野の御燈祭
鬼追い行事のなかでも一風変わっているのが、大分県国東市と豊後高田市に残る修正鬼会(しゅじょうおにえ)です。旧暦の松の内に行われる行事で、松明をもった鬼が寺内を駆け回るという雄壮さもさることながら、一番の特徴は鬼たちが退治される存在ではなく、姿を変えたご先祖さま(祖霊)だとされていること。平安時代頃までの古い民俗を今に伝えるもので、現在では成仏寺、岩戸寺、天念寺のわずか三ヶ寺でしか見ることができず国の重要無形民俗文化財指定を受けています。
旧暦の正月6日(現在は新暦2月6日)に行われる日本最古の火祭りが、和歌山県熊野は神倉神社の御燈祭です。白装束に身を包んだ2000人ともいう男たちが手に手に松明を掲げ、500段以上もある神社の石段を一斉に駆け下りる様子は竜の姿にも例えられるほどの壮観。新年にあたり、神社から清らかな新しい火をもらい受ける行事がもとになっていると考えられています。神倉神社は初代神武天皇が登ったとも伝えられる巨石・ゴトビキ岩を御神体としてまつり、最近は熊野のパワースポットのひとつとしても人気を集めています。