桜大国ニッポンには、100年、200年、なかには1000年を超える樹齢を誇る桜の名木が全国各地に盛りだくさん。あれも見たい、こちらも気になる、とはいえ全て訪れるのはなかなか難しいもの。そこで桜の古樹、名木のなかでも、不思議な伝説や面白い歴史をもったスペシャルな名木を厳選してご紹介します。木に秘められた物語を知ったら、花もいっそう美しく見えてくるかもしれませんね。まずは西日本からご紹介。
高知のひょうたん桜
悲劇の戦国武将がお手植え?宇宙にも旅立ったユニークな桜
【桜の種類】エドヒガンザクラ(推定樹齢500年、開花時期4月上旬)
高知県仁淀川町のひょうたん桜は、標高400メートルのほどの山肌に悠然とそびえるエドヒガンの一本桜。樹高20メートル以上、根元の周囲が6メートルとも8メートルになるともいわれる県指定天然記念物で、県内はもちろん四国全体でも最大最古級の名木です。ひょうたん桜というユニークな名前は、つぼみがひょうたんのようにくびれた面白い形をしていることからつけられました。
推定樹齢500年のこの桜には、ある戦国武将のお手植えという伝説が残るのですが、その人物というのがなんと甲斐の名将・武田信玄の子の武田勝頼だというからびっくり。武田勝頼といえば、父の残した騎馬軍団を率いて織田信長に対立するも、長篠の合戦で織田鉄砲部隊に大敗し自害してしまったはず。なぜ土佐の山中に、一見ゆかりもなさそうな勝頼の伝説が残されているのでしょう。
実は仁淀川町には、「勝頼は長篠の合戦ののち自害せずひそかに土佐に逃れ、仁淀川町の山中に隠れ住んでいた」という話が伝えられているのです。土佐と伊予の国境になる山深い町は、落人伝説にはぴったりの土地柄だったのかもしれません。お手植え伝説のひょうたん桜のほかにも、地元には勝頼ゆかりの品を納める大崎八幡宮や、武田家のものといわれるお墓、さらには平家の落人集落跡地など、伝説に思いを馳せる不思議スポットが残されています。
2008年、ひょうたん桜の種はスペースシャトルに乗って宇宙に旅立ちました。帰還した種から無事に発芽した苗木は「宇宙桜」とよばれ、県内外の各地に植樹されています。
岡山の醍醐桜
天皇も見惚れた、樹形日本一の名桜
【桜の種類】エドヒガンザクラ(推定樹齢1000年、開花時期4月上旬〜中旬)
18メートルの樹高から東西南北それぞれに20メートルもの枝を張り出した醍醐桜は、均整のとれた樹形で多くの人を惹きつけ、一本桜の女王とも呼ばれます。根回りは10メートルに迫り、推定樹齢は700年とも、樹木医の鑑定によれば1000年ともいわれます。
現代人同様この桜の美しさに惹きつけられたのが、南北朝時代の天皇・後醍醐天皇でした。
武士によって奪われた政治の実権を取り戻そうと鎌倉幕府と対決した後醍醐天皇ですが、圧倒的な武力の前に苦戦。巻き返しをはかった元弘の乱にも敗れ、元弘2(1332)年の春、隠岐の島に流され、幽閉されることとなってしまいます。
島までの護送の道のりで岡山を通過したとき、後醍醐天皇はこの桜を目にし、美しさに心を奪われてしまいました。一説には休憩中にこの桜に感動した天皇はいつまでも席を離れず、従者にうながされてしぶしぶこの地をあとにしたとか。島から京の都に帰還するときに眺めたという説もありますが、どちらにせよ、当時からその美しさは別格とされていたようです。
こののち桜は後醍醐天皇の名前の一部をとって、醍醐桜と呼ばれるようになりました。一時期は衰えていた樹勢も名樹木医の治療によって復活し、往時の美しさを取り戻しています。すぐそばには二代目の醍醐桜も植えられ、伝説を未来へとリレーしています。
大阪造幣局の桜の通り抜け
維新の志士の粋な計らい!府民憩いの桜並木
【桜の種類】ソメイヨシノ、関山、普賢象など131品種
(開放期間は4月中旬から下旬頃、年により変更)
大阪城や万博記念公園と並んで、大阪の桜スポットとして外せないのが造幣局敷地内の桜の一般開放、通称「桜の通り抜け」。造幣局という場所柄いつでも気軽に入れるわけではないのですが、桜の見頃に合わせて毎年春、一週間の無料開放が実施されます。この太っ腹な催しは明治初期から100年以上にわたって続けられ、大阪の春の風物詩にもなっています。
江戸時代、藤堂家のお屋敷だったこの場所には立派な庭がしつらえられ、明治になって造幣局ができると400本近い桜もそのまま局に引き継がれました。この桜の一大名所を「局員だけで見ていたのではもったいない」と大胆に市民に開放したのが、当時の造幣局長・遠藤勤助でした。
遠藤は幕末、長州藩の出身。同じ長州の伊藤博文や井上馨にくらべるとやや知名度は低いですが、文久3(1863)年に藩を代表してイギリス留学を果たした「長州五傑」のひとりで、イギリスでも「長州ファイブ」として活躍を称えられ最近ではマンガや映画の主人公にもなりました。帰国後には藩の外交官として活躍し、明治政府では日本人だけでの銅貨鋳造を成功させるなど近代日本の造幣制度の基礎を確立させています。
遠藤が愛した桜たちは昭和の大阪空襲によって大部分が焼き払われてしまいましたが、戦後すぐに多くの人の手によって復元がはかられ、350本もの桜が咲き誇る名所として復活しました。花のトンネルになるほどのソメイヨシノの他にも見所なのが131を数える品種の多さで、小手毬や御衣黄といった珍種も植えられて毎年一週間で100万人近い人出を集めています。
官民一体で守られ、愛される造幣局の桜は、「民都」大阪のシンボルといえるかもしれません。
京都 醍醐寺の桜
天下一花見大会!秀吉に救われた桜の名所
【桜の種類】ソメイヨシノ、ヤマザクラなど(花見頃は3月下旬から1ヶ月ほど)
醍醐山一帯が境内というほどの広大な寺域に数多くの国宝、重要文化財をもつ京都でも指折りの名刹・醍醐寺は、何といっても桜の名所として圧倒的な知名度を誇っています。平安時代から「花の醍醐」として有名だった醍醐寺ですが、中世には応仁の乱などの影響をうけて荒れ果てるままに。そんな醍醐寺を救い、桜の名所としての再出発を後押ししたのが天下人豊臣秀吉プロデュースのもとに行われた、史上もっとも盛大な花見大会「醍醐の花見」でした。
慶長3(1598)年春、秀吉は1300人ものお供を従えて醍醐山麓で花見の宴を催します。お世継ぎの豊臣秀頼や淀君たち錚々たる顔ぶれを諸大名たちがホストとなっておもてなし。秀吉はこの日のために醍醐山全体に700本もの桜を移植させ、荒廃した境内にお堂を移築し整備します。現在国宝となっている金堂もこのとき秀吉によって醍醐寺にもたらされたものでした。大成功をおさめた花見の宴に満足したかのように、秀吉はこの年の夏に62年の生涯を閉じます。醍醐の花見は天下人の人生の集大成であったのかもしれません。
ところ狭しと咲き誇る醍醐寺の桜の中でも双璧といえるのが、霊宝館前の大枝垂れ桜と、三宝院の紅枝垂れ桜、通称「土牛の桜」です。
大枝垂れ桜は幅20メートル以上、相当の引きで撮ってもフレームに収めきれないほどの絢爛な枝ぶりで、醍醐寺のなかでも別格といわれるほどの景色をつくりあげています。「土牛の桜」は秀吉の眺めた桜の子孫といわれ、日本画家奥村土牛が画題としたことからその名がつけられました。切手の絵柄にもなっているので目にしている方も多いかもしれません。
土牛の桜は未来への継承のためシダレザクラとしては世界初のクローン培養が試みられ、成功を収めています。順調に育ったクローン桜は「太閤千代しだれ」と呼ばれて親木近くに植樹され、仲良く咲く姿をみることができます。
滋賀 清水の桜
小説家の心を射止めた、優しく美しい老巨木
【桜の種類】エドヒガンザクラ(推定樹齢300年、開花時期4月上旬)
琵琶湖八景のひとつに数えられる海津大崎は、日本のさくら名所100選にもその名を連ねる滋賀県下有数のお花見スポットでもあります。800本ものソメイヨシノが琵琶湖岸を4キロにわたって桜色に染め上げ、開花時期には琵琶湖から桜をみるためのお花見船やボートも繰り出されて大変に賑わいをみせます。
この海津大崎から2キロほど離れた場所で、湖岸の桜に一週間ほど先駆けてゆったりと花を咲かせるのがエドヒガンの一本桜、清水の桜です。町外れの共同墓地のなか雄大に枝を広げるこの桜は、作家・水上勉の小説『櫻守』に登場したことで一躍有名になりました。
小説の主人公・弥吉は、桜の保護活動に生涯を捧げた桜守のもとに学ぶことで、自らも庭師として桜を護り伝える道を歩むことになります。やがて清水の桜に出会った弥吉は、足元の墓地を抱くように咲き誇る桜を村人の誰もが大切に守っている様子を目にし、人々の桜への愛情と、木の下に眠る大切な人への思いを桜に重ねる切ない心情を感じ取ります。
やがて自らの死の直前、弥吉が口にした最期のことばは、「清水の桜の下に眠らせてほしい」というものでした。小説家に「桜守の人生を締めくくるのにふさわしい」と感じさせるほどの魅力が、清水の桜にはあったのでした。
県下のエドヒガンとしては唯一の県指定天然記念物でもあり、加賀藩の前田侯がこの桜のあまりの美しさに何度も何度も振り返っては眺めたという逸話から「見返り桜」の別名もあります。
岐阜 中将姫の誓願桜
神秘の桜は女性のパワースポット!?
【桜の種類】ヤマザクラの変種(推定樹齢1200年、開花時期4月上旬)
中将姫は藤原鎌足の子、藤原不比等のひ孫にあたり、奈良の當麻寺に伝わる当麻曼荼羅を蓮の糸で一晩のうちに織り上げたという伝説的な女性。岐阜の願成寺には、中将姫にまつわるこんな物語が残されています。
幼い頃から聡明で美しかった中将姫は、そのために継母から憎まれ、ついには追っ手を差し向けられてしまいます。都から岐阜の願成寺にまで逃れた姫でしたが、疲れのためにこの地で病に臥せってしまい、お寺の観音様に一心に回復を願いました。やがてご利益あってか全快した姫は、観音様へのお礼にと境内に一本の桜を手植えし、「私の代わりに観音様をお守りし、私のように病に苦しむ女性をすくってあげておくれ」と誓願したのでした。
このときの桜が今にみられる願成寺の誓願桜だと伝えられています。樹齢はなんと1200年にもなるヤマザクラの変種で、この木の他には同種のものがみられない大変に貴重な品種として国の天然記念物に指定されています。樹高は8メートルとやや落ち着いた枝ぶりですが、花のひとつひとつに20から30もの花弁をつけた見事な八重咲きを楽しませてくれます。
中将姫の伝説から女性を守る桜ともされていて、心をこめて願うと女性の病気を治してくれるご利益があると言い伝えられています。また誓願桜の種子はスペースシャトルに乗って宇宙を旅しているのですが、帰還後に芽を出した苗木は通常の何倍もの早さで急成長し、関係者を驚かせました。この桜はまだまだ不思議なパワーを秘めているのかもしれませんね。
静岡 狩宿の下馬桜
武士の世のはじまりと終わりを眺めた桜の長老格
【桜の種類】ヤマザクラ(赤芽の白山桜)(推定樹齢900年、開花時期4月の上旬から中旬)
建久4(1193)年、富士の巻き狩りを催した源頼朝がこの桜の木の前で下馬し、愛馬をつなぎとめたことから「下馬桜」、または「駒止めの桜」「駒つなぎの桜」などと呼ばれてきました。「狩宿」という地名も頼朝がここを本陣としたためで、下馬桜の伝説は数ある桜の伝承のなかでもかなり信ぴょう性の高い話といえそうです。
ちなみに頼朝といえば「イイクニ作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせがお馴染みでしたが、最新の研究では幕府を開いたのは1192年よりさらに遡って1185年とする学説が主流になっています。イイハコ…では少々語呂が悪くなってしまうかも。
ともかく、1193年といえば頼朝は名実ともに征夷大将軍、武家の棟梁として全盛期にあり、その実力を誇示するために開催された壮大なデモンストレーションが富士の巻き狩りでした。下馬桜は「武士の世の開幕宣言」を目の前で目撃した歴史の生き証人なのです。
日本五大桜のひとつに数えられ、樹齢は貫禄の1000年クラスでヤマザクラとしては国内最古。樹種は赤芽の白山桜で、赤い芽と白い花とのバランスで樹全体が日々色合いを変える姿を楽しむことができます。周囲に広がる菜の花畑とのコントラストも美しく、富士山を借景にすれば撮影の構図にも申し分なし。国の特別天然記念物にも指定された名木は、鑑賞方法もさまざまに楽しませてくれる名エンターテイナーです。
ところで、この桜を詠んだ歌に「あわれその駒のみならず見る人の心をつなぐ山桜かな」という有名な一首がありますが、この作者は徳川家最後の将軍となった15代徳川慶喜。下馬桜は奇しくも武士の世のはじまりと終わりを結びつける、不思議な縁をもっていたようです。